モンゴル自由連盟党
 

 

刑期満了後も活動家拘束か=15年服役のモンゴル族ハダ氏―中国

2011年05月10日掲載

 

 

  

 

 http://www.smhric.org/news_372.htm の翻訳

南モンゴル人の著名な反体制派であるハダさんは現在、内モンゴル自治区の区都フフホト市の白塔国際空港に近い二階建ての「秘密の監獄」に監禁されており、彼自身に対する違法拘留と彼の妻シンナさん及び彼の息子ウェイラスさんに対する恣意的な逮捕を行っている中国当局に抗議するため、長期間の断食を何度も敢行しているという。ハダさんの義理の妹に当たるナラーさんが南モンゴル人権情報センターの電話取材に対して語った。

ナラーさんは、シンナさんとウェイラスさんが2011年1月17日に、それぞれ「違法経営」と「麻薬所持」の罪名で正式に逮捕され、区都フフホト市にある内モンゴル第一拘置所及び内モンゴル第三刑務所で拘束されていることを明かした。

三人とも容疑を認めることと引き換えに厚遇を約束するという当局のあらゆる申し出を拒絶しているという。ハダさんは、極めて厳しい健康状態であるにも関わらず意識はとても明朗で安定しており、「南モンゴル人の自由のために死ぬまで闘う」と述べている。

以下は南モンゴル人権情報センターが2011年5月4日にシンナさんの妹であるナラーさんに電話取材をした際のやりとりである。

担当者:サインバイノー?
ナラー:サイン、サインバイノー?
担当者:ナラーさんですか?
ナラー:はい、そうです。
担当者:お久しぶりです。
ナラー:なかなか電話が繋がらなかったでしょう?
担当者:はい。今まで何回も試してきましたが、ようやく繋がりました。そちらの様子はいかがですか?
ナラー:私の電話機は全部持ち去られました。
担当者:この電話機以外一台も残っていないのですか?
ナラー:これは私の母の電話機です。私の携帯電話は全て没収されました。
担当者:シンナさんとウェイラスさんが正式に逮捕されたというのは本当ですか?

ナラー:はい。二人とも正式に逮捕されたので、もはや単に拘束されているということではありません。私たちの誰も彼らに会わせてもらえません。ハダさんにも。私はチャガーン・サル(モンゴルの旧正月、2011年は2月3日)の前にハダさんに2回会うことができました。ハダさんによると「秘密の監獄」だという二階建ての建物で会いました。

担当者:その建物はどこにあるのですか?
ナラー:フフホト市にある白塔国際空港の近くで、内モンゴル第四病院のすぐ隣です。
担当者:シンナさんとウェイラスさんはいつ正式に逮捕されたのですか?

ナラー:2010年12月10日にウランハダ(赤峰)市にある内モンゴル第四刑務所から移送された後、ハダさんは何日間か断食して抗議しました。ハダさんが今の「秘密の監獄」に移されてから、すぐにシンナとウェイラスが連れてこられて短い再会を果たしました。12月24日頃、三人は当局による違法拘留と誣告による冤罪に抗議するため、断食を開始しました。その結果、当局はシンナを内モンゴル第一拘置所に、ウェイラスを内モンゴル第三刑務所に連行しました。ハダさんの抗議の断食が15日に及んだ後、私はそのことを当局から知らされ、ハダさんが断食を止めるように説得するために呼び出されました。私がハダさんに会ったのは約20年ぶりでしたが、そのとき彼の健康は極めて酷い状態にありました。この会話が終わった後、この電話機も没収されるか回線を切断されるでしょう。しかし、今の私は何も恐くありません。このようなことは今までにも何度も見てきたのです。それから、チャガーン・サルの前に、たしか2011年2月1日だったと思います。私は例の「秘密の監獄」で三人に会うことを許されました。インターネット上に出回っている写真はその時に撮られたものです。私たちは2月4日にそこを離れました。その頃、三人は今後いかなる新聞媒体の取材にも応じないという誓約書に署名するよう要請されました。ハダさんは、さらに無実の訴えを取り下げて過ちを認めることを求められました。しかし、ハダさんは今でも何の罪も犯していないと主張しています。誓約書に署名しない限り、彼らが釈放されることはないでしょう。

担当者:当局の監視はどうでしたか?

ナラー:監視はとても厳しかったです。私が出入りするときは毎回、頭のてっぺんから爪先まで調べられました。カバンやポケットの中も全て丹念に調べられました。私は何の罪も犯していないし、何も間違ったことをしていないのですから、これは全く異常なことです。誓約書に署名をしなかったため、2月6日にシンナとウェイラスは刑務所に収監されました。その日から今まで監禁されたままです。

担当者:今度はどちらの刑務所に収監されたのですか?

ナラー:シンナは内モンゴル第一拘置所とも呼ばれている内モンゴル第一刑務所に収監されました。ウェイラスは内モンゴル第三刑務所です。ハダさんはそれから抗議の断食を新たに開始しました。当局は彼の断食を止めるように説得させるために再び私を呼び出し、私は「秘密の監獄」に赴きました。そこは、非常に厳しい監視下に置かれている小さな二階建ての建物で、全ての扉と入り口で武装警官が警戒に当たっています。許可された人間だけがIDカードを機械に通して独房に入ることができます。監視カメラはそこら中にあります。やってきた私がハダさんに何か食べるようにお願いすると、彼は食事を始めました。彼の精神状態に変化はありませんでした。彼はとても強靭な心の持ち主で常に冷静沈着です。深刻な足の痛みに苦しみながらも、彼は今でも無実を強く主張しており、かつて彼が抱いた信念を今でも堅く抱き続けています。当局は、「4年間の参政権剥奪」を理由にハダさんを拘束しているのだと強弁しています。私も「参政権剥奪」が監獄への収監でないことは知っています。ハダさんはこのことについても抗議し続けてきました。そしてまた、断食を繰り返しているのです。

担当者:シンナさんとウェイラスさんが逮捕された正確な日付は分かりますか?
ナラー:2011年1月17日頃です。私は彼らが釈放されることを幾分期待していましたので、大変なショックを受けました。私は逮捕状をハダさんの独房の中で見ました。二人もその場に居合わせており、二人とも同じ日に正式に逮捕されたのです。2011年4月15日に、80歳になる私の母が、ウェイラスの公判が4月末に行われることを知らされました。母からこのことを聞かされ、私は弁護士を探すことを考え始めました。4月20日に私は、当局からウェイラスの公判が延期になったことを告げられました。私は今日、彼の公判についての詳しい情報を得るためにフフホトに行きます。チャガーン・サル以来、私はシンナとウェイラスに会っていません。

担当者:彼らに着せられた罪名は何ですか?

ナラー:ウェイラスは「麻薬所持」でシンナは「違法経営」です。これらはハダさんが受け取った逮捕状に記載されていた罪名です。ハダさんの右顎は深刻な神経系の問題を抱えており、いつも痙攣しています。私が最後に彼と会ったのは2011年2月20日です。私は、彼が信念を捨てるように説得することを命じられていました。彼の健康状態は非常に厳しいにも関わらず、意識はしっかりとしていました。それ以降はハダさんに関する情報が一切ありません。彼らが私にハダさんを訪問させなくなったのは、全ての移動、二階に上がったり一階に降りたりするだけでも毎回行われる違法な身体検査に、私が抗議したためです。そのようなわけで彼らは私を来させないようになったのです。ハダさんの叔父であるハスチョローさんも、ハダさんの状況について心配しています。私は15日おきにシンナとウェイラスにお金を届けることができますが、誰も彼らと面会することは許されていません。

担当者:つまり、ナラーさんがハダさんの家族の誰かと会ったのは2011年2月20日が最後だということですね?

ナラー:そのとおりです。私がハダさんに面会したのが2011年2月20日で、それ以降、ハダさんの家族の誰とも会っていません。彼らの書店は封鎖されたままで、冷蔵庫の中の食べ物も腐敗しているでしょう。中は散らかったままです。私があなたと話した後は必ず電話機を没収されました。すでに3個の電話機を没収されています。私は警察によって日常的に監視され、尾行され、脅されています。私が外出するたびに、彼らは私の母に電話をかけて、私がどこに行ったのかを尋ねます。私は犯罪者ではありません。私には公民としての基本権があります。私の家族は全員とてつもない圧力の下で暮らしています。私が「秘密の監獄」にハダさんを訪ねた時、彼はウランハダ市の内モンゴル第四刑務所からこちらに移送されたときのことを話してくれました。彼の釈放予定日の一週間前に当たる2010年12月3日、彼は6台の警察車輌とともにウランハダ刑務所から連れ出され、2010年12月10日にフフホト市に到着しました。ハダさんがウランハダ刑務所を出る前、彼は「危険で頑固な犯罪者」(中国語では「危頑犯」)に分類されたそうです。

担当者:ハダさんは今でも中国当局によって犯罪者として扱われているのですか?

ナラー:そうです。なぜなら彼は協力を拒み、中国当局を告訴すると言ってゆずらないからです。彼は今でも15年前の事件に対する裁判所の判決を受け入れていないのです。それで彼は「危頑犯」と看做されて、多くの警察車輌が動員されたのです。ボグト(包頭)市に到着する前のドルブド(四子王)旗(フフホト市近郊)で4台に乗り換えたそうですが、おかしいのはボグト市の刑務所に彼を連れてきた6人の警官も、2010年12月10日にハダさんがフフホトに出発するまで、その場に留め置かれたということです。その警官らによる情報漏洩の可能性を恐れたのだろうと言って、ハダさんは笑っていました。「秘密の監獄」の中でハダさんと話すまで、私は義理の兄であるハダさんが何を考え、何をしているのか、よく分かっていませんでした。私は彼があのように聡明で知識豊富な人であることを知らず、彼は重大な罪を犯したのだと認識していました。それから、私が彼のためにモンゴル文字が印刷されたTシャツを何枚か差し入れようとしたのですが、監獄の役人がそれを取り上げてゴミ箱に投げ棄ててしまいました。それを見たハダさんは怒りました。彼は法律についてもとてもよく知っています。彼が信念を捨てて誓約書に署名するように求められたとき、「今後違法な活動は一切行わない」という文言に対して、自分はいかなる違法な活動もしていないと主張しました。シンナも「違法経営」と呼ばれる罪を受け入れることを拒みました。そしてウェイラスはいかなる「麻薬所持」を認めることも拒否しました。一人の高官は、ハダさんの面前で「もし誓約書に署名をしなければ、誰も釈放されない」と言い放ちました。なんとも無法で恣意的なことが行われています。彼らの振る舞い方や口調は、あまりにも無礼で尊大です。私が訪問する度に毎回行われる身体検査は非常に侮辱的でした。さらに不愉快で屈辱的だったのは、彼らが80歳になる母の下着まで検査したことです。私たちが一緒にハダさんを訪問した時のことです。
担当者:伝え聞くところによりますと、ハダさんの叔父であるハスチョローさんがハダさんに一回会えたということですが、いつ、どこで会ったのか分かりますか?

ナラー:そうですね。彼は一度ハダさんに会うことができました。しかし、「秘密の監獄」を訪問することは許可されず、代わりにホテルでの面会が設定されました。

担当者:ハダさんの叔父であるハスチョローさんは電話に応答しません。彼の新しい番号をご存知ですか?
ナラー:いいえ。私も同じように彼と連絡をとるのは難しいです。彼があなたと話した後で、彼の電話もやはり没収されました。
担当者:私たちが電子メールでやりとりすることは可能ですか?

ナラー:とても難しいです。なぜなら私のコンピュータは没収され、私の電子メールも遮断されてしまったからです。私が電子メールで友人に送ったメッセージは受信されませんでした。また、友人から私に送られた電子メールも届きませんでした。私がハダさんと面会することについて、最初は当局の意図が分かりませんでした。彼らはいわゆる私を通じてハダさんに対する「思想工作」をしようと試みたのですが、皮肉にも、私がハダさんの影響を受けたことで、逆にハダさんによる「思想工作」が成功してしまったのです。警備は非常に厳重です。警官は全員異なる場所から集められ、お互いのことを知りません。「秘密の監獄」の入り口から独房まで三段階のセキュリティ・パスがあり、そこを出入りするたびにIDカードを機械に通さなければなりません。何度も長期間にわたる抗議の断食を行ったために、ハダさんの健康状態は本当に悪いです。今のところ精神はしっかりして落ち着いていますが。ハダさん、シンナ、ウェイラスに誓約書への署名をさせようとした当局の試みはことごとく失敗に終わりました。当局は、もし誓約書に署名すれば、ウェイラスに良い仕事を紹介し、シンナには充分な補償を約束し、ハダさんには大学教授の地位を用意するとまで申し出たのです。私たちは「何て寛大で魅力的な提案なんでしょう」と冗談を言っていました。

担当者:彼らの弁護のために弁護士を雇うことはできましたか?

ナラー:私の二人の兄が弁護士です。もしウェイラスの公判が始まれば、彼らが代理人になるでしょう。兄たちによると、被告人には新聞媒体を法廷に連れてきて、公判の内容を取材させる権利があるそうです。しかし、当局か方針を変えてウェイラスの公判を保留しています。すみません、話が変わりますが、有名なモンゴル人作家で反体制派のホーチンフーさんが獄中で亡くなったと聞きました。何かご存知ですか?

担当者:いいえ、2011年1月27日に彼女が退院した後、彼女に関する新しい情報はありません。電話は繋がらず、電子メールも返事がありません。

ナラー:ハダさんは、彼がしたことは自分の政治的意見を中国の法律に則って平和的手段により表明しただけに過ぎないと言っていました。彼はモンゴルの歴史について多くのことを語ってくれました。どうか笑わないでください。私は今、私たちモンゴル人の歴史について勉強し始めました。恥ずかしながら、私は自分たちの歴史についてほとんど何も知りませんでした。歴史を学べば学ぶほどモンゴルへの愛が深まります。最近私は毎日いくらかの時間をモンゴル語の勉強に費やしています。私は都市で生まれ育ったので、私のモンゴル語はモンゴル人の友人と充分に意思疎通できるほどではありません。それから、ハダさんは、インターネット上に出回っている全ての写真と動画は、中国の秘密警察によって撮影されたものだと言っていました。2010年12月31日に、当局は私に、家族再会の様子を撮った映像を見せると約束しましたが、彼らは2010年12月17日に連れ去られていました。最も私の心を動かしたのは、ハダさんが「どこにも行こうとは思わない」と言ったことでした。彼は死ぬまで私たちモンゴル人の自由のために闘うことを決意していて、故郷である南モンゴルの大地に彼の血を最後の一滴まで注ぐことが幸せだと言うのです。私は本当に感動しました。彼がこう言った時、すでに長い抗議の断食を行っている最中でした。監獄の役人は、無理やり彼の口を広げて食べ物を入れようとしました。彼は当局による妻と息子の違法逮捕に抗議するため、食べることを拒否し、食べ物を吐き出しました。ハダさんは、私にこれらの問題について慎重に取り扱うように助言しました。そして冗談めかして「刑務所に投げ込まれないように気をつけて。もし君が捕まったら、シンナとウェイラスに衣食を届ける人が誰もいなくなってしまうよ」と言いました。

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