第１５回菜の花忌シンポジウム　草原を今も飛ぶ“坂の上の雲”

2011年02月25日掲載

司馬遼太郎賞記念スピーチ　静岡大教授・楊海英さん

　私は今、静岡県に勤めています。静岡市に興津（おきつ）という町があり、清見寺というお寺が建っています。１９４８年９月に当時の住職が北京から骨壺を持ち帰りました。川島芳子さんの遺骨でした。「男装の麗人」といわれた中国・清朝の皇族の出身です。夫のカンジュルジャップはモンゴル人で、その父親は満州義軍のリーダー、パプチャップでした。

　満州義軍は司馬先生の小説『坂の上の雲』の中で騎馬隊として出てきます。司馬先生が強調した透き通った格調高い明治精神を築き上げた秋山好古さん率いる近代日本の騎馬隊とパプチャップの騎馬隊は肩を並べて戦い、大国・ロシアに勝ちました。パプチャップはその後、モンゴル民族の自決のために戦いました。彼を支援したのは川島浪速さんです。パプチャップはモンゴルの草原で戦死しますが、川島家は残された幼い男の子２人を引き取り育て、日本の陸軍士官学校を卒業させました。そして養女の芳子さんと結婚させたのです。

　礼節、名誉を何よりも大切にするモンゴル民族と、明治の日本人は実に波長が合いました。モンゴル人は明治の精神を具現した日本人を尊敬していました。草原の民にとって、日本はまさに“坂の上の雲”でした。日本人はモンゴル人に近代的な知識を教え、１９６０年代後半に文化大革命が始まる前まで、内モンゴルの教育水準は非常に高く、中国政府で一番学歴の高い幹部はモンゴル人だったのです。しかし、中国は日本的な近代知識を持ったモンゴル人を嫌い、「日本刀をぶら下げたモンゴル人」と表現し粛清しました。

　川島芳子さんの故郷・長野県出身の青年が１９４５年３月に満州で入隊しました。青年は赤痢を患い、陸軍病院に入院していたのですが、侵攻してきたソ連軍の捕虜となります。シベリアに護送された後、モンゴルの首都・ウランバートルに送られます。マイナス２０〜３０度の厳しい環境の中での抑留生活などが原因で、翌年の１月に２０歳の若さで亡くなりました。

　モンゴルには１万２３００人の日本人捕虜が送られ、１６１８人が亡くなっています。昨年９月、私は青年の親族とウランバートルの青年の墓地を訪ねました。現地には大変立派な墓標が日本の方向に向けて建っています。しかし、日本人たちが青春の汗と血を流した内モンゴルの大地には何一つしるべは残っていません。私は弾圧されたモンゴル人と、中国によって否定され続けている日本人たちの足跡を追い続け、彼らの歴史を本にまとめました。それが『墓標なき草原』です。

　モンゴルで生まれ育った私ですが、何らかの形で日本とつながっています。近代日本がモンゴルに与えた“坂の上の雲”は、今も確実にモンゴルの草原の上を飛んでいます。

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【プロフィル】楊海英

　よう・かいえい　静岡大人文学部教授。昭和３９（１９６４）年、内モンゴル自治区オルドス生まれ、４６歳。北京第二外国語学院大日本語学科卒業。平成元年３月に来日し、国立民族学博物館総合研究大学院大学博士課程を修了。関西外大講師などを経て現職。専攻は文化人類学。モンゴル名はオーノス・チョクト。

第１４回司馬遼太郎賞（司馬遼太郎記念財団主催）は８日、楊海英（よう・かいえい）・静岡大教授（４６）の「墓標なき草原（上下巻）」（岩波書店）に決まった。贈賞式は来年２月１２日、ＮＨＫ大阪ホールで開かれる「第１５回菜の花忌」に合わせ行われる。賞金は１００万円。

　文化大革命時に内モンゴルであった迫害の実態をあぶり出す民族誌。内モンゴル出身の楊さんは「モンゴル語学科出身の司馬さんの賞をいただき、大変光栄で運命的な出会いを感じる」と話した。

　歴史の闇を掘り起こす意義　司馬遼太郎賞の楊海英さん

「歴史には光と影がある。特殊な時代の特殊な歴史ではあるが、今の中国を理解するのに役立つはずです」。１９６０年代の中国の文化大革命期に内モンゴル自治区が受けた迫害の実態を描き出した『墓標なき草原（上・下）』（岩波書店）で第１４回司馬遼太郎賞（司馬遼太郎記念財団主催）に決まった静岡大教授（文化人類学）、楊海英（よう・かいえい）さん（４６）は、歴史の闇を掘り起こす意義を強調する。

　文革時には多数のモンゴル民族が粛清されたとされる。自身も内モンゴル出身で、幼いときに親族が被害を受けた。「今も身体障害が残る人がいて被害のつめ跡は生々しい」という。

　受賞作は中国当局がタブー視する題材に切り込み、「グローバルな目を持って民族の誇りと人間の叫びを描き出した」（選考委員の松本健一さん）と高く評価された。執筆にあたって、中国政府の公文書を収集し、１００人を超える現地住民に聞き取り調査して事実を丹念に積み上げた。

　「年齢を重ねるといろいろなことを忘れていくものだが、文革のことは誰もが日時まで正確に覚えている。話を聞きながら一緒に涙を流したこともあります」

　平成元年に来日し、梅棹忠夫氏が初代館長を務めた国立民族学博物館の総合研究大学院大学で学んだ。大阪外国語学校の蒙古語科出身の司馬遼太郎の名を冠した賞を受けたことに縁を感じている。

　「日本のモンゴル研究のレベルは高い。受賞がほかの文化人類学者への励ましになれば」（海老沢類）

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