1.20世紀90年代末から、中国共産党中央委員会と中央政府は、南モンゴルとモンゴル国に対する戦略的政策を変遷させた。「元朝は中国の歴史の一部である」というストーリーで、1949年から宣伝し、教科書にも掲載し、モンゴル人の歴史と地域を中国の支配下に入れるため、様々な面で動いてきた。だが、1949年から30年間で、相次いで行われた政治運動の中、共産党や政府は、モンゴル国のことに一時的に触手を伸ばすことができなかった。1979年からの、いわゆる「改革開放」政策によって、中国人が「温飽問題」(着る服と、食物がある)を解決するようになった。89年以降、江沢民が「愛国教育」を強調し、胡錦涛時代になると、それを最も強調したのである。それによって、「人民」を動員し、外国を「非難」させ、社会の矛盾を「外」へ導き、己の「安定」を得る方法になった。
2.2001年アメリカの「9・11事件」から、イスラム教における原理主義や世界における民族主義の変遷に従って、中国共産党は、チベット、ウイグル、南モンゴルをさらに「飼い馴らす」ため、様々な目に見えない方法、手段、方針などを実施するようになった。モンゴル国への「基本的方針」は、「対台湾方針」と大同小異である。「経済と宣伝の下で、政治へ浸透する」ことであった。また、中国共産党は、「エネルギー開発」政策にもあわせ、モンゴル国へ「商人部隊」を絶え間なく「侵攻」させ、ありとあらゆるところにまで、中国から「投資」を行った。加えて、ウラーンバートルで、中国共産党中央委員会や中共内モンゴル自治区委員会の宣伝部によって、ラジオ放送、テレビ放送、新華書店などが次々に登場したのは確実である。
3.内モンゴル自治区で、「モンゴル」と言う言葉を取り消すため、学術界や芸術界、知識界の「上流階級の人々」を「統戦」し、「蒙古族」を「中国の北方民族」の一つに名付け、テレビ放送局からはじめ、「中国・内蒙古」、「中国・呼和浩特」、「中国・通遼市」などの文字や宣伝が氾濫するようになった。 数多くの博物館を建て、モンゴル国や南モンゴル地域からモンゴル人に関わる文物を大量に取り集め、展示し、「モンゴル人とモンゴル地域は、昔から中国のモノだ」と言う目標で動いている。一方、「内モンゴル自治区こそ、モンゴル人を代表する」と言う目的もあると考える。チベット地域でも、同じく動いているので、昨年、東京で「チベット文化展示会」を開催された。今年か来年は、「新疆ウイグル自治区」についての展示会や「文化活動」がくりひろげられることになるであろう。
4.博物館や音楽が、その民族の伝統文化やアイデンティティーに大きな役割を担っているので、統治者にたびたび利用されていると考える。チベット人やモンゴル人たちが、このような「展示会」に対して、強く抵抗し、統治者の「夢」を打ち破るのは、正義的活動であり、尊厳を守る活動でもあるとも思う。 残念ながら、アジアの強大な国・世界中の先進国である日本は、中国共産党政権と「仲良く協力者」になり、経済的利益のために、人権と民主と自由についての政治的道徳の法則に違反し、世界的価値観に違反している。日本における一部のマスコミや文化財団が、いわゆる「少数民族」の苦しみを軽視して、「お金」のために、人を殺している専制政権を結託しながらこのような活動しているのは、日本の国恥であると思う。中国政府は、「チベット人とモンゴル人の伝統」を展示する資格がないと思う。最も残念なことは、今回のいわゆる「展示会」に対して、あるモンゴル人が「協力者」として動いているとの情報が入っている。それは、モンゴル人の恥じとも思う。
■編集部注
両国の江戸東京博物館での偽「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」が終了したと思いきや、今度は場所を移し、山梨県立博物館で開催されている。
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_tenjiannai_10tokubetsu001.htm
「甲斐国・騎馬文化のルーツを探る」と題しているが、そもそも、モンゴル騎馬軍団の軍馬運用と武田信玄の軍馬運用に関連性もないしルーツでもない。甲斐国(山梨県の旧国名)は信濃国(長野県の旧国名)と並び、勅旨牧(ちょくしまき)があり、古代から皇室の軍馬の産地であった。中国大使館はモンゴルに加え日本の伝統文化までをも中華文明の一部としたいのか?山梨県立博物館の、その何でも商売にしてしまう性根は中国共産党譲りとしかいいようがない。山梨県立博物館へ抗議を!
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