ウラデイン E ボラク 先生
この研究のアプローチというのは、エッセンシャリズム、本質主義的なも和光大学総合文化研究所 モンゴル民族文化基金共催 モンゴ
ル学術祭 04 モンゴル―「国境にまたがる民』のモダニティとナショナリズム
ウラデイン E ボラク : ニューヨーク市立大学准教授、国立民族学博物館客員教授,
シンジルト/訳, 一橋大学助手,(2005年3月まで) シンジルト先生の関連サイド↓
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/ihs/soc/anthropology/shinjilt.html
http://sakura.let.kumamoto-u.ac.jp/about-s.html
シンジルト先生
これは2004年12月22日に和光大学で行われた「モンゴル学術祭 04」の一部であるシンポジウム「モンゴル―「国境にまたがる民』のモダニティとナショナリズム」の発題報告である。このシンポジウムは和光大学の総合文化研究所とモンゴル民族文化基金が共同で開催したものであり、この報告のほかにも研究報告があったが、紙面の関係上、割愛させていただいた。
報告者のボラク氏は、内モンゴル自治区オルドス盟出身で、1993年、イギリスのケンブリッジ大学で社会人類学の博士号を取得し、1998年、ニューヨーク市立大学に赴任されて今に至っている。
著書に、Nationalism and Hybridity inMongolia,
Oxford University Press, 1998、
The Mongols at China’s Edge:
Historyand the Politics of National Unity, Rowman &
Littlefield Publishers, 2002 がある。
なお当日の通訳と原稿の翻訳はシンジルト氏がおこなった。
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皆さん、こんにちは。まず、和光大学の先生方、そして学生の諸君、そして基金の皆様に感謝申し上げます。
今現在、我々が行っているモンゴル研究の特徴というのは、1つの地域研究というふうに言っても過言ではないと思います。地域研究というのはどういうものかというと、あくまでもそれは民族国家、要するに新興国家というものが生まれてから、その政治や文化をいかに語るか、いかに提示するか、そのために生まれた1つの学問だと思います。
他方、冷戦時代、欧米において、文化というものも1つの地域研究の対象として扱っていました。その際に1つの問題として上がってくるのは、国家、民族、文化というのはどういうものかということです。したがって、この研究の特徴を一言で言うと、オリエンタリズムとも言われているように、1つの地域に限って研究されていたということです。
この研究のアプローチというのは、エッセンシャリズム、本質主義的なものでした。つまり、そもそも対象はそうであるというような本質的なアプローチをとってきました。
それで、なぜ本質化するかというと、その目的、ねらいというのは、今、私、現在というものをよりうまく整理するために、あるいはそれを正当化するために、このようなエッセンシャリズムというのがとられているというふうに思っています。例を挙げますと、現在のためですから、すべて過去も現在のためにあったというふうに解釈されているわけです。例えばチンギス ハーンを歴史的なコンテクストでとらえるのではなくて、むしろ今現在のためにというような感覚でその歴史を解釈したりしていました。 ここで、地域研究の時空間的な意味を改めて見てみたいと思います。なぜ私がそうする必要を感じているかというと、今までの時空間的な語り方は、実にさまざまな障害を来していると思うからです。とりわけ少数派である人間たちも今現在の状況を必ずしもうまく語っていないというふうに思いますので、再びそれを確認したいです。私が今まで10年ぐらい行ってきた研究というのは、今言ったようなアプローチに対する一種のアンチテーゼでした。
その際に私がとった方法の1つは、まず自分を客体化する、相対化するということです。まず自分と戦う、それがまず1つです。それが私にとって、一種の研究資源となっているわけです。
私が自分を考える際に無視できないのは、私を生んだ「内モンゴル」であります。地域研究においても内モンゴルが主な対象となってきました。内モンゴルは、地理的には東アジアにありながら、いずれの国家、いずれの地域にも簡単にはめきれない。ある意味ではモンゴル国でもない、中国でもない、そういうような特徴のある地域です。ですから今までずっと注目されてきました。
しかし、実は内モンゴルを見ることによって、国家、民族というものがいかに人間を区切っているかという生々しい現状を我々は垣間見ることができると思います。さらに内モンゴルの内部に入ってみると、内モンゴルの人間というのはどういうものかというと、歴史感覚をもって、かつ自分自身を認識しようというような強い願望をもつ人間だと言えるわけです。
一言で言うと、内モンゴル人はかなり自分の主体性をもっているわけです。主体性をもって何をするかというと、モンゴル国、そして中国を相対化しようとします。つまり自分の主体的な視線をもって2つの存在を見ているようなところがあって、だからこそ非常に重要だと思うわけです。主体性をもつ内モンゴル人の存在というのは、常に東アジアにおける民族、国家に対して、一種のチャレンジを行いつつあ存在だと言えるわけです。
私は研究の対象として内モンゴルをぜひ語りたい。しかも、その脈絡、そして内モンゴルの心拍をぜひ描きたいと思ってきました。
対象である内モンゴルとは何ぞやかと言ったら、それは一種のトランス ナショナリズムの存在です。越境的な、国家を超えた存在ということです。
そのため、内モンゴルの人びとは必ずと言っていいぐらいモンゴル国及び中国から排除されたり、あるいは差別を受けたりするような運命にあるわけです。そういう意味において、内モンゴルの事象は、従来どおりの地域研究的なアプローチでは、なかなかそれを片づけることができない。あるいは語り切ることができないものです。そういう意味において、私は新しい方法でそれを研究していきたいと思いまし
た。
私の研究の特徴というのは、まず内モンゴルを1つの中心として見るわけです。国際政治上確かに周辺にあるけれども、彼の視点というのが中心である。我々は内モンゴル的なまなざしをもって他者を認識すると同時に、自分自身を認識することもできると思います。
もうちょっと詰めていきますと、内モンゴル的なまなざしというのは、非常に鋭いまなざしであり、中国を見ることもできるし、モンゴル国を見ることもできます。怖がることなく直視するわけです。我々はみんなそうですけれども、人に見られるとどこか気持ちが悪くなるわけです。したがって反応するわけです。内モンゴルの人間のまなざしに見られた人間は黙っておられず、何らかの行動に出るわけです。そこで、相互作用が生じます。
内モンゴルの人間として、人に差別されたり蔑視されたりすることによって、自我を失ったりすることはありません。そこで、私は内モンゴルの主体性を強調したいと思います。
私は内モンゴル的なまなざしをもって何をやったかというと、簡単に言うと2冊の本を書きました。私は2冊の本において、モンゴル国、そして内モンゴルに関してそれぞれ語ってきました。それは具体的に何に基づいているかというと、あくまで私が2つの社会空間において生活してきた経験に基づいています。そういう経験をもって2冊の本を書くことによって、私は国家、そして民族というものを考察してきたわけです。 私の研究成果を大体4つのキーワードにまとめることができます。モンゴル国の文脈で言うと、1つは純粋性、もう1つは異種混合性です。それから、中国の文脈で言うと、民族分裂と民族団結ということです。私はこの4つのキーワードをもって2冊の本を書いたわけです。 それでは、まず1冊目の本の大筋を述べたいと思います。 まず私が直面した問題は、モンゴル国のモダニティとは何かを明らかにしなければいけないという問題でした。その際、交通整理しておかなければいけないのは、それまでのモンゴル社会における古い伝統的な共同体というものがいかに再編されてきたのかということを明らかにするという作業でした。
さまざまな出来事がありましたが、まず、モンゴル諸族というのは諸国に統合されていったわけです。1つは旧ソビエト、もう1つは中国です。あとは独立国家モンゴル国です。その際、さまざまな民族運動があったが、ブリヤートは旧ソ連に、内モンゴルは中国に分断されるといった出来事もありました。
何よりもここで強調しなければいけないのは、モンゴル国において祖国、あるいは国という概念が生まれて、その際の「モンゴル」の基準というのは何かというと、あくまでもモンゴル諸族の中の1つの部族で、その部族がすべてを代表することになったということです。具体的に言うと、ハルハ部族がモンゴル全体を代表することになったわけです。そのハルハ部族を中心としたモンゴルというのは、内モンゴル、そしてブリヤートモンゴルを排除するという形で成り立ってきました。
そして、1つの興味深い現象として、モンゴル人民共和国の内部において、社会主義モンゴル民族という概念が生まれたことがあげられます。その誕生過程でハルハ部族の人間が民族として、その他の部族はいわゆるエスニックな存在として差異化されたわけです。
その際に生まれた1つの等式は、ハルハ=モンゴル、モンゴル=ハルハということで、ハルハでなければモンゴルじゃないということです。もしモンゴル人になりたいのであればハルハ人にならなければいけない。このロジックでいきますと、モンゴル国内部において階梯的な民族の分布状況が生まれるわけです。
そのような言説空間において、ハルハというのは普遍性、そして歴史の主体として扱われ、その他のモンゴル部族は本物ではなく、怪しいものとされたわけです。そのため、モンゴル国以外のモンゴル人となると、さらに本物ではない、より怪しい存在として配列されていくわけです。彼らはハルハ人ではなくて、かつモンゴル国籍ももっていないわけですから、モンゴル人であるわけがないとされるのです。したがって、純粋と異種混合という二項対立的な図式が自然に生まれてくるわけです。
言うまでもないのですが、モンゴル人自らがそういうことをやっているだけではなくて、外部からもいろいろなパワーがありまして、例えば旧ソ連とか、あるいは中国や日本とか、さまざまな外部からの働きによってこのような状況が生まれている。そういうことが言えるわけですけれども、それよりも私が強調したいのは、モンゴル人のナショナリズムの特徴とは、外の力と戦っているのではなくて、むしろ内に対して破壊を与えるということです。
これがモンゴル的なナショナリズムの特徴だと言えるのではないかと思います。 なぜかというと、例えば1990年代、旧ソ連の崩壊によって、モンゴルはソ連の束縛から解放されたにもかかわらず、エルリズ(モンゴル語で、雑種、混血の意)、つまり「内部の敵」という言葉を打ち出したわけです。「内部の敵」というのは極めて危険です。なぜ危険かというと、見た目では我々モンゴル人と変わらないにもかかわらず、中身は変わってしまった。中身が変わったというのは何を意味しているかというと、我々の敵である中国、ソ連のすべての素質を内面化し、身体化してしまったことを指します。したがって彼らエルリズは最も危険だというような言説が生まれたわけです。
その際に必要とされたのは、純粋なモンゴル人、そして非モンゴル人、さらにその間にエルリズみたいなどっちつかずのモンゴル人がいるわけですから、それをはっきりしておかないといけないというような分別作業です。誰もが実は潜在的エルリズになり得るわけですから、自分自身は純粋なモンゴル人であってエルリズではないということを証明するためにさまざまな著作があらわれました。当時は、こうすることによって、自分自身の純粋性、本物のモンゴル人であるということをあらわさなければいけないというような状況になったわけです。
例えば元大統領のポンサルマーギーン オチルバトは、自分のあらわした本において、なぜ自分の姓が女性の名前になっているのかとい
うことを説明しています。ポンサルマーというのはお母さんの名前ですが、なぜ自分はお母さんの名前を使っているかということを説明しなければ、読者に彼はもしかしたら漢人との混血児じゃないかと疑われる可能性がありますので、自分はモンゴル人であること、父は誰であるかということ、とりわけ、母の系統は『蒙古秘史』にも出ているぐらい歴史的一貫性をもっていることが、意識的に強調されていました。当時、モンゴルの知識人、エリートたちの中には、モンゴル人の姓というものを復活しないといけないというような流れも出てきました。 90年代において、モンゴルの1つの大きな政治的流れとして、モンゴルにおけるエルリズというものを引き出し、エルリズを打倒するというようなうごきがありました。純粋なモンゴル人のためにエルリズの存在を排除するというような考え方で、それによってモンゴルの範囲が徐々に縮小していくことになったわけです。なぜかというと、純粋なものだけ残して、非純粋なものは全部排除していくわけですから、モンゴルの範囲がどんどん小さくなっていくわけです。
ここで言わなければいけないのは、その際のモンゴル人のやり方は昔と全然逆だということです。昔はこうではなかったんですが、今はどんどん小さくなっているわけで、そういう意味においては正反対です。昔のモンゴルは小さな部族でした。しかし、 昔のモンゴル人の発想というのは、他者を排除するのではなくて、むしろ異質なものをどんどん取り入れることによって大きくなっていった。つまり拡張型だったわけです。さまざまな諸部族を統一することによって、大きなモンゴルというものが生まれたわけです。その当時のモンゴル人の発想というのは、どんどん拡大していく、拡張型の世界観だったわけですが、今は逆で、非常に縮小型のモンゴルになっています。人間の考え方ががらりと変わりました。
ポストコロニアルな状況において、さまざまな文化や人間の移動というものがあって、文化もどんどん多様化して、お互いに影響し合っているのです。 21世紀において、モンゴル人も海洋文化に近づいていくわけです。そしてさらに海外に行くわけです。そこで必ず民族とか国家とか文化の異種混合というのが生まれるはずです。
この本で私が強調したことの1つは、異種混合というのは現実であって、それが普遍であって、当たり前であるということです。逆に言うと、純粋、きれいというのは非常に特別なものであって、決して普遍的なものではないということです。どういうものであれ、「汚れる」のは簡単ですけれども、それを清めるというのはなかなか難しい。きれいな状況を保つのはなかなか難しいのです。
モンゴル人は、異種混合性、エルリズ性というものを直視しないといけない。逃げてはだめだということです。現実を直視することを通
じてモンゴル人とは何であろうかということを考えないといけません。
私は、モンゴルの本質、あるいはモンゴル的な特徴、そういうものがあることを信じていません。が、もしあるとすれば、多様性を内包するのがモンゴル人の特徴だというふうに言えるのではないかと思います。常に自分自身を考え、自分の内部を見て、自分のへそを見て生きていくのはよくない。
繰り返しますが、モンゴル人というのは多種多様なものをもち合わせた存在で、1つの部族の存在によって語り切れないということを私は強調してきました。モンゴル人の特徴、モンゴル人性というのは、さまざまな異質のものを一体化したものであるということです。これがモンゴル人の力であり、自分自身の命を縮めることのないようにするための1つの可能性だというふうに思うわけです。
それでは、今度は内モンゴルに目を移してみたいと思います。
内モンゴルというのはどういう状況に置かれているか、簡単に言うと、モンゴル国から排除され、中国に受け入れられた状況にあります。そして中国はそれを絶対逃がさないような努力をしているわけです。中国の歴史を見ると、物事を占有する、領有する、物事を何でもかんでも自分のものにしようという欲望が非常に強いです。そのような考え方にそぐわなければ、分裂的な行為だと言うわけです。したがって、民族団結ということを強調するわけです。凝集性というものが、常に1つのキーワードとして重んじられているわけです。そこで、「民族団結」、「民族分裂」というものが、私の2冊目の本のキーワードとなっています。
次に、民族団結というものを私はいかに理解し、それを語ってきたかということを話したいと思います。
まず、民族団結の存在の前提には、民族分裂というものがあります。中国の状況をご存じの方はわかっていると思いますが、民族団結と
民族分裂はワンセットのもので、コインの裏と表のような関係にあります。この2つのキーワードはワンセットになっているんですけれども、その性質はもちろん違います。民族分裂というのは一種の状況で、団結というのは一種の要求、理念です。つまり民族団結というのは、民族分裂ということがないようにするための1つの処置、あるいは道具だと考えることができるわけです。 民族団結ということを考える際に、まず我々に求められているのは、20世紀の中国の民族問題というものをしっかり把握しておかないといけないということです。当たり前の話ですけれども、清朝の後に生まれたのが中華民国ですが、清と中華民国の違いというのは、中華民国は漢族を中心に生まれた1つの民族国家で、清の主体民族は満州族であるという大きな違いがあります。
中華民国の後に生まれた中華人民共和国も、自分の存在の正統性というものを強調するために、ベネディクト アンダーソンが言うように、民族という皮をもって国家を包装するわけです。そこで1つの現象が見られるわけです。民族という皮はサイズが小さくて、国家というのはあまりにも大き過ぎるので、なかなか包装しきれないという現象なのです。
それでは、中国内部における民族というのは何かというと、1つの実体、ボディをもつ存在であるということです。その中身は土地であり、伝統であり、文化であり、民族を定義する幾つかの決定的なものがあるわけです。中国の民族、ナショナリティは、決してエスニックグループではないわけです。そういう意味において中国のナショナリティとしての民族というものは、自分の命があって、その発展のためにさまざまな方向性をもっているわけです。その方向性というのは、中国国家という国家としてのナショナリズムと相反しているわけです。つまり国家というのは何かというと、異質な国民を均質化するものです。そこで統合するのは民族ということですから、矛盾が生じるわけです。
そこで、国によって具体的にどのような措置がとられたかというと、20世紀において「中華民族」という新しい概念が生まれたのです。そこで、当たり前のように中華民族の主体は漢族になり、その他の民族はあくまでもその一部となるのです。英語で言うといわゆるエスニック グループになっていくわけです。
20世紀の国際的な環境、あるいはその空気というのはどういうものか。大きな流れとして国民国家の樹立という理念がありました。1つの民族としての国家をもつわけです。中国の場合は漢族中心に生まれた国家であるということです。
中華人民共和国は漢族以外の少数民族に、民族区域自治という制度を与えました。それで少数民族というのが実体をもった存在になって
いるわけです。
それなりの自分のスペースというものをもって、自分の社会をもって、すべての内臓をそろえているわけですから、1つの実体として存在していたというふうに言えるのではないかと思います。そこで実体をもったわけですから、自分のもつべき権利というものを主張していくことになります。そうすると、最大の政治実体である国家とのイデオロギー的な衝突になります。
中国の歴史を見ればわかるように、民族をめぐるさまざまな言説が生まれてきたわけです。例えば少数民族の場合には地方主義、漢族の
場合は大漢族主義と言われるようなものが生まれてきたのです。
皆さんもご存じのように、旧ソ連、ユーゴスラビアなどにおいて、さまざまな民族紛争、民族浄化などがあったため、人々の頭の中にどういうものが生まれているかというと、民族というのはけしからぬ、非常に悪いものだという認識が生まれています。民族は人間の文明を破壊するもので、社会システム、国際システムを破壊する、けしからぬ存在として人々に理解されているのが現状です。
このような厄介な状況をどういうふうに整理整頓すべきかということに関して、今まで多くの人々はアメリカのモデルというものを打ち出しています。アメリカというのは非常に望ましい、理想的な人間の社会のあり方を代表するものとされているわけです。しかし、アメリカは多民族国家というより、多民族による移民国家であるわけです。移民というのはさまざまな文化をもち、都市化することによって、政治的なというより、むしろ文化的な差異を強調することによって自分の権利というものを獲得しようとしているわけです。これは一種のアメリカ的なエスニックな状況で、決して民族的状況ではありません。アメリカは多民族国家ではなく、むしろ多文化国家です。
アメリカのモデルというものをもって人々は何をしようとしたのか。多民族社会の諸問題を、その根源にあるさまざまな政治的、文化的、民族的な要素を抜きにして、多文化主義的なイデオロギーを挿入することによって、もしかしたら解決することができるのではないかというように期待していたのです。
先ほどの話に戻りますが、中華民族多元一体論というのは、まさしく多民族社会を多文化的社会へと読み替えようとしているわけです。
その際、中華民族多元一体論というのが1つの大きな国民統合の道具として威力を発揮しているわけです。 道具と言っても、これは普通の道具ではなく、本物の武器よりも力をもっています。なぜなら、中華民族多元一体論というものの強調によって、さまざまな求心力が人間によって創造されていくわけですので、決して無視することはできないイデオロギーであります。
時間の関係でたくさんお話しできないんですが、1つの事例を出したいと思います。この事例は私の本の中にも出ています。
中国のことをよく知っている人は必ず知っていると思いますが、王昭君の話をしたいと思います。
王昭君の墓は、民族団結の1つのシンボリックな存在として、内モンゴルのフフホト市の南の郊外にたてられてあります。内モンゴルの文化というのは、実は民族団結の文化というふうに言いかえてもいいと思うのですが、そこで王昭君は非常に大きな意味をもっていて、毎年、王昭君を記念するセレモニーも行われています。
王昭君は、2千年前の漢の時代の宮廷の中の召使の女性でした。漢の元帝は宮廷に3,000人程の美女たちを養っていて、そこに王昭君が
含まれていたのです。しかし、決して目立った存在ではありませんでした。その時代に漢の王朝と対立していたのは、匈奴という北方の民族でした。そして、匈奴の皇帝と平和協定を結んだ際に、漢の側が美女を差し出したわけです。
こういった政略結婚では、自分の娘を相手のところに行かせるべきですが、漢の皇帝はちょっとずるくて、3,000人の美女の中から最も一般的な者を派遣したわけです。もちろん、美女か醜女かそして、何が「一般的」かそれらをはかる基準というのは民族によって時代によって違いますから、よくわかりませんが、少なくとも言えることは、匈奴の皇帝の基準には合ったのではないかということです。
それはともかく、王昭君の話は2千年ぐらい前の話であるにもかかわらず、中国の多くの知識人たちによって常に語られてきました。1つの悲劇としてこの物語を伝承することで、さまざまな文学作品が生まれました。つまり喜ばしいことではなかったわけです。王昭君の歴史というのは、漢族知識人たちの、屈辱のあらわれだというふうに言えるわけです。
元朝のとき、馬致遠という作家が書いた作品によると、匈奴の王様は王昭君を見て一目ぼれして、絶対手離したくないと思ったそうです。ほかの作品においては、王昭君は本当は荒涼な蒙古高原には行きたくなくて、フフホトの近くの大黒川で自殺してしまったといういきさつもあります。似たような物語は数多くありまして、いずれも非常に悲劇的に王昭君を語ってきました。
こういう話はほかのいろいろな政治的な文脈でも見られるわけです。例えば1959年にダライ ラマは海外へ亡命したわけですが、亡命して10日たったころ、当時の周恩来首相が田漢という有名な演劇芸術家に命令を下しました。『文成公主』について脚本を書けという命令でした。唐の時代、文成公主という女性がいて、彼女も民族団結のシンボルとして中国でよく語られているわけですが、彼女は7世紀にチベットの吐蕃王と結婚したわけです。その女性を大きく取り上げたわけです。つまりこの女性も王昭君と同じく少数民族と結婚したわけですから、「民族団結」のシンボルでありまして、このような物語をもって、つまり、漢族とチベット族は昔から仲良くやっていたということをもって、「民族分裂」はけしからぬものとして牽制されるわけです。
そして、ダライ ラマが海外亡命した数カ月後、中国の各地の政治家や知識人たちが集められ、内モンゴルのフフホトの南にある王昭君のお墓参りをし、そこで多くの詩人たちが自分の作品を残したわけです。その際、当時の内モンゴルの指導者オラーンフという人がお墓をさらに改築しました。それは今も残されているわけです。
本当なら、マルクスや社会主義的イデオロギーをもって民族分裂というものを牽制すべきだったにもかかわらず、中国はむしろ何千年前の歴史をもち出した。そこで強調されているのは結婚でした。結婚というのは一種の自然な力、抵抗できないぐらいの力をもつパワフルな出来事です。こういったものをもって民族分裂を牽制しています。これが特徴だということです。
せっかくですから、最後にまとめたいと思います。
10数年にわたって私がとってきた方法、あるいは目指してきたことが1つあります。それは、内モンゴルの主体性、あるいは、内モンゴルを中心とした視点、内モンゴルを中心とした立場性、内モンゴルという高見に立って物事を見るという方法です。そういう視野の広さを私は目指してきました。
そのような高見あるいは、土台に立って私は何をやってきたかというと、2つのことを見てきました。1つはモンゴル、もう1つは中国です。それらを認識することに努めてきました。
私は内モンゴルというのを強調してきましたが、内モンゴルを研究すること自体が、私の目的ではありませんでした。私は、内モンゴルを通して、モンゴルや中国といった国家の存在を研究してきました。私は自分の研究をトランス ナショナリズムの研究だと自認しています。そういう意味でほかのトランス ナショナリズムの研究とは異なっているかもしれないと思います。
私のこのような言い方が正しいかどうかを含めて、次の3人の先生方のコメントをよろしくお願いしたいと思います。ご清聴、ありがとうございました。
(ウラデイン ボラク/シンジルト)
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