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ブックレビュー

ユ・ヒョヂョン、ボルジギン・ブレンサイン編著『境界に生きるモンゴル世界――20世紀における民族と国家』


2011年04月20日掲載

 

 

  

 

二木博史東京外国語大学総合国際学研究院教授
 本書は、冒頭にユ・ヒョヂョンによる序論「「境界」に生きる「モンゴル世界」――本書の射程と構成」がおかれ、本論は第1部見える境界と見えざる境 界(第1 章、第2 章)、第2 部境界、境界越えへのまなざしと思い(第3 章、第4章)、第3 部特論( 1 、2 )から構成され、計6 本の論文を収録する。
 和光大学総合文化研究所の共同研究プロジェクト「多国家(分散・分断)民族における内なる民族関係(代表:ユ・ヒョヂョン)」(2000年度〜2003年 度)がもとになっている。
1999年に刊行された『変容するモンゴル世界――国境にまたがる民』(新幹社)の続編的性格をもつ。同研究所が、「境界」に位置する地域や集団に注 目し、「モンゴル世界」をダイナミックにとらえる方法で研究にとりくんできたことは、たかく評価されよう。

  第1 章は「中国東北三省のモンゴル人世界」と題されたブレンサインの論文である。前半では、内モンゴル自治区以外の行政区域、とくに東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)に居住するモンゴル人の状況が、後半では清代の比較的はやい時期に八旗に編入されたモンゴル人が、現在どのようなアイデンティティをもっているかが、現地調査でえたデータにもとづいて記述されている。東北三省のモンゴル地域は、清政府による東部内モンゴルへの盟の設置、中華民国時代の特別行政区設置(1914年)、国民政府による特別行政区の省への変更(1928年)、満洲国(1932年)、東モンゴル人民自治政府(1946年)、内モンゴル自治政府(1947年)の各時期の行政区分を経験したあと、中華人民共和国の時代をむかえるが、文化大革命を契機におおはばな行政区域の変更がおこなわれ、1979年にほぼ現在のかたちにおちついた。

  満洲国時代に省外4 旗(ゴルロス前旗、ゴルロス後旗、ドゥルブド旗、イフミャンガン旗)とされた地域は、結局、中華人民共和国においても内モンゴル自治区のそとにおかれることになった。つまり「内モンゴルの統一」の埒外におかれた背景の解明が、この論文の前半の重要なテーマになっており、詳細に分析されている。
漢人の入植によるモンゴル人居住区域の変化は、モンゴル系の住民が各省のどの市や県にすんでいるかをくわしくおうことによって、把握することができる。
  ブレンサイン論文は、この点で、とりわけ有用である。中国における民族のアイデンティティは、マイノリティが有する権利の問題と密接にむすびついており、社会的、経済的要因とふかくかかわる部分と、文化的な性格を有する部分に、わけてかんがえることができるとおもわれる。かつて八旗に属していたモンゴル人のアイデンティティの問題は、母語の問題、あるいは教育言語の問題とは無縁であるという意味で、民族籍を回復したマンジュ人の場合と共通点をもっており、たいへん注目される。

  第2 章は、ユ・ヒョヂョンの論文「ダウールはモンゴル族か否か――1950年代中国における「民族識別」と「区域自治」の政治学」である。
1956年に独自の民族として認定されたダウール人の「自治州」設立をめざす運動、「反右派闘争」のなかでのダウール人運動家に対する弾圧、1958年の モリンダワ自治旗の成立までをおう。ダウール人の民族としての認定と「区域自治」制度のなかで自治を獲得したプロセスをこれほど詳細にあとづけた研究は、日本ではもちろん、世界でもおそらくないとおもわれる。

  自治地域の名称の問題、内モンゴル自治区と黒龍江省のあいだの関係、ダウール文字制定の問題、満洲国の遺産など、あつかっているテーマは多岐にわたる。およそダウール人にかかわる主要な問題には、ひととおりの解釈をしめしておこうという、著者のつよい学問的情熱をかんじさせる。
  モンゴル研究者からみれば、モンゴル系のマイノリティ集団にすぎないダウール人の運命に著者はどうして、これほどのこだわりをみせ、これだけの資料を渉猟して長大な論文をかいたのだろうか?という疑問がわく。ひょっとすると、ダウール人とモンゴル人をあまり区別しないモンゴル研究者に対する不満がひとつの要因になっているのかもしれない。ダウール人がモンゴル人の一集団であるという、ある種のおもいこみが、わたし自身にもあったことを、つよくおもいしらされる。これはたぶん、わたしだけではなく、わたしの前後の世代の日本人モンゴル研究者にある程度、共通しているおもいこみだとおもう。その原因はいくつもある。たとえば、世界的なダウール人学者ウルグンゲ・オノンがモンゴル人としてのアイデンティティをつよくもっていること、1920年代に内モンゴル人民革命党の指導者として活躍したメルセーがモンゴル人として行動したことなどをあげることができる。とくにフルンボイルのダウール人は、すこしまえまでモンゴル語学校で教育をうけたため、モンゴル人とかわらないようにモンゴル語をしゃべり、なまえもモンゴル人と同様のなまえをつかうので、簡単にはモンゴル人と区別がつかない。

  メルセーやウルグンゲ・オノンの立場は、わたしにはよく理解できる気がする。少数集団たるダウール人は、独力で国家をつくることはできない。同系の 民族のモンゴル人といっしょになって統一国家をつくるみちをすすむか、少数民族として中国のなかにとどまるか、このふたつの選択しかなく、かれらは前者をえらんだのである。

  中華人民共和国のなかでいきていく、という選択肢しかのこされなくなったなかで、ダウール人がみずからの主体性を強調するようになったのも、これまた当然のなりゆきであった。

  わたし自身は、これまで、かなり無頓着に「ダグール」という表記をつかってきた。他方ユ・ヒョヂョンは本書で、一貫して「ダウール」という表記をもちいている。どちらがより適切なのか、すこしかんがえてみた。

  エンフバトが1983年に刊行した『ダウール語・漢語小辞典(Daor Niakan Bulku Biteg)』は、標準方言であるブトハ方言がもとになっている。このDaor の発音が[daur]であることは、ネット上に公開されているダウール語のテキストの実際の発音からも、テキスト(ローマ字)にふされた発音記号からも1)、やはりブトハ方言を記述したB. Kh.トダエワの本からも確認される2)。キャロライン・ハンフリーが英語の表記をthe Daur Mongols としているのもダウール人の発音を重視したからだ3)。

  要するに、現在のダウール語の標準的な発音をもっとも忠実に反映したカタカナ表記は、あきらかに「ダウル」である。わたしは、今後は現地音を尊重して「ダウル人」「ダウル語」という表記を使用することにし、この文章の読者にも標準的呼称として推奨したい。同様の理由で、Morin dawaa Daor aimanei weerie ixkiewu guas(漢語では)は、「モリンダワー・ダウル人自治旗」という呼称をすすめたい。

  「自治政府主席のオルチンバト」(131ページ)と「フルンボイル自治政府の主席エルチンバト(額爾欽巴図、モンゴル人)」(219ページ)は、もちろん同一人物で、満洲国時代に興安北省長をつとめ、戦後はフルンボイルの自治運動の中心になった。通常はエルヘムバト(モンゴル語のスペリングはErkimbatu )と表記される。

  第3章は、青木雅浩の論文「「境界」を行き交う民族の思いと大国の思惑――1920年代前半の「モンゴル世界」とソヴィエト、コミンテルン」である。1921年7 月の「モンゴル人民政府」の成立以降の各地域のモンゴル人の民族運動、ソヴィエト・ロシア、ソ連、コミンテルンの対モンゴル政策を、ロシアの文書館に所蔵される一次資料等をもちいて論述したもので、おおくの独自の知見をふくむ。わくぐみとしては、各地域のモンゴル人の統一のための運動(著者のいう一体性)と、それぞれの地域の特殊性(個別性)の相互関係が、外部勢力(ソヴィエト・ロシア等)の対応に影響をあたえたという立場をとる。
  タンヌ・ウリヤンハイ(現在のロシア連邦トゥワ共和国)の帰属問題について、ソヴィエト・ロシア内に、モンゴルの一部とみなすかんがえ方(シュミャツキー)とソヴィエト・ロシアの影響力の維持を重視する立場の対立があり、結局、1921年秋のモンゴル政府との交渉のなかで、両者の調整ができなかったという指摘は、当時のロシアの政策の柔軟性をしめしていて、興味ぶかい。

  コミンテルン第4 回大会(1922年)において、モンゴル人民党が審議権しかあたえられなかった、すなわち正式にはコミンテルンに加入していなかった、という指摘も重要である。このことは、一方ではモンゴル人民党が革命組織にまで成長していなかったこと、他方では、コミンテルンの指示をそのままうけいれる立場にはなかったことをしめしているとおもわれる。

  著者はエルベグドルジ・リンチノとツェベーン・ジャムツァラーノのパンモンゴリズムを、前者の「中華連邦」構想、ソ連加入構想、後者の「中央アジア連邦」案を対比させるかたちで、比較している。わたしなりに整理すれば、これは、世界連邦への期待を有する社会主義者リンチノと、各民族、国家の独自性をより重視する中立主義者ジャムツァラーノのちがい、ということになる。

  モンゴル政府に参加した新疆出身のチャハル・モンゴル人デムベレルが、1922年にモンゴル人民党の代表として新疆に派遣され、新疆のモンゴル人のあいだで反漢人闘争を組織するのに成功し、それがウイグル人の運動にまで影響をあたえたという記述も、たいへん注目される。モンゴル政府のパンモンゴリズム的はたらきかけは、コミンテルンの介入によって後退するが、当時のモンゴルの指導者の積極的姿勢をしめす、もうひとつの事例として記憶されるべきだ。なお「馮玉章」(311ページ, 2箇所)は、「馮玉祥」の入力ミスであろう。

  第4 章は、テグスの論文「統一文字への夢――1950年代中国におけるモンゴル語のキリル文字化運動」である。
1953年から1958年まで展開された中国におけるモンゴル語のキリル文字化運動を、当時の資料をもとに丹念におっている。モンゴル人民共和国で1940年代になされたキリル文字化を参考に中国でも文字改革がすすめられた。キリル文字化をすすめるなかで、文章語の基礎とすべき方言の選択がおこなわれたが、相対的に話者のすくない西部方言がえらばれたのは、モンゴル人民共和国の標準語にちかづけるためであった。しかし文字の統一が、モンゴル民族の文化的統合の方向をとらざるをえないのは、あきらかであり、「反右派闘争」のかたちであらわれた、イデオロギー的ひきしめ、とくに「地方民族主義」 に対する批判にさらされることになった。

  1956年には内モンゴル全域の小学校で新入生に対するキリル文字教育が実施されたことからもわかるように、文字改革は具体的に実現にうごきだしていたが、中央政府の方針の変更によって、中止を余儀なくされた。語彙の問題をくわしくのべているのは、テグス論文のひとつの特色である。キリル文字化運動のなかで、内外モンゴルの語彙の統一の方針がだされ実行されたが、運動の中止にともない、漢語からの借用の方向に転換した。そのご、1962年にモンゴル語の語彙の復活、漢語からの借用語の排除の方針がだされるが、「四清運動」のなかで1965年から漢語からの借用語が再導入されたという。
  本論文ではあつかわれていないが、文化大革命の時期にモンゴル語の漢語化がさらにすすめられて、今日の中国のモンゴル語の語彙が最終的に形成され、 語彙の面で内外モンゴルのあいだには、かなり距離ができてしまった。

  周知のように、民主化後のモンゴルでは、モンゴル文字の採用が正式にきまり、小学校の新入生に対する教育が3年間つづけられた。外からみると、文字による内外モンゴルの文化的統合の可能性がうまれたわけだが、モンゴル文字復活の運動のなかでは、民族の文化的伝統の回復がもっぱら強調され、内モンゴルを意識したような面はあまりみられなかったようにおもわれる。この運動が失敗した理由も、政治的なものではなく、むしろ経済的なものだったとかんがえられる。つまり、1950年代に展開されたキリル文字化運動では、モンゴルの学者が積極的に協力したが、1990年代のモンゴル文字復活運動の場合、そのような内外モンゴルの協力はほとんど実現しなかった。これは、半世紀のあいだに両地域の分断が深化したことのあらわれであろう。

  なお、キリル文字導入運動のはじめのころに雑誌論文をかいた「ナムジルスワン」(337ページ)は、インジャンナシの作品の研究で内モンゴル人として最初にモンゴルで学位を獲得した元内モンゴル大学教授ナムジルチェウェーン(Namjilceveng)と同一人物とすれば、「ナムジルセウェーン」と表記すべきだろう。

  特論1 は、佐治俊彦論文「内モンゴル文学管窺――リグデン文学から覗く内モンゴルの文学と生活」であり、リグデン文学の紹介になっている。とくにリグデンの長編小説『地球宣言――大草原の偉大なる寓話』(ブレンサインとの共訳のかたちで教育史料出版会から刊行)の翻訳にとりくんだ経験がかたられている。日本では現代内モンゴル文学の研究、紹介はたいへんおくれている。「内モンゴル文学」というジャンルが確立されず、「中国少数民族文学」というわくぐみでの紹介が先行しているようにみえるのは、モンゴル文学研究者の怠慢によるものなのか、内モンゴル文学そのもののかかえている限界によるものなのか、わたしにはよくわからない。モンゴルでも内モンゴル文学は、ほとんどしられていないし、よまれていない。その背景には、もちろん文字による断絶という要因もある。しかし、それ以上に、内モンゴル文学が、ローカルな文学という性格を脱しきれていないのではないかという気もする。


  特論2 は、松枝到論文「日本における「東洋史」の成立とモンゴル」である。ヘーゲルの記述をてがかりに、ヨーロッパにおけるモンゴル認識をふまえたうえで、日本での「東洋史」の成立のプロセスを、政治とのかかわりに充分考慮しつつ、那珂通世、内藤湖南、白鳥庫吉らの北アジア研究にはたした役割を論ずるというかたちでしめしている。世界のなかでのアジア研究という視点からみるなら、松枝が白鳥の再評価を主張しているのは、充分納得がいく。

  本書におさめられた諸論考は、それぞれ刺激に富んだ、たかいレベルの研究であり、民族問題に関心をもつ専門家、一般読者のいずれにも歓迎されると信じる。
[ふたきひろし]

 

 
 

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